2008年2月27日水曜日

沖縄 戦争について

沖縄は南部から行きます


沖縄といえばリゾートですが


日本を見るには戦争の事も見ないといけないです




なので




戦争に関する所に行って来ました





平和祈念公園からです

































動画1



これ黒いのもは全部墓です


沖縄でなくなった人たちの名前が書かれています


この石碑を全部みるのは結構難しいです


それだけ多くの人がなくなってすごい数だからです






次にひめゆりの塔に行って来ました


ひめゆりの塔と言えば






















ひめゆり部隊ですね



沖縄の女子学生が兵隊の治療や食料の配送をしたり


陸軍病院に動員されたのです


教師と学生と240人がいた中90人がなくなった話です





感想はすごかったとしかいいようがなかった




どれだけ戦争が怖いのか


どれだけすごい体験をしてきたかを語ってます





でもなぜこのひめゆりの博物館ができたのでしょうか



それはこういう理由があるみたいです



沖縄の持久作戦は12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲を生みました。

あれから40年以上たちましたが、戦場の惨状は、私たちの脳裏を離れません。

私たちに何の疑念もだかせずむしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育

の恐ろしさを忘れていません。

戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、

未だ紛争の耐えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人ひとりの体験した

戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるをえません

平和であることを大切さを訴え続けることこそなくなった学友・教師の鎮魂と信じ、


私たちはひめゆりの塔を建設いたしました





そのひめゆり部隊の生き残った人たちは文章を残していて



涙なしでは無理でした








次はこれ





日本海軍司令官がいた所の壕です




総司令官が書いた言葉です


この言葉は自決する前に書いた言葉です


長いので要約しています



沖縄に敵の攻撃が始まって以来防衛のために戦闘にあけくれ


県民に関してはほとんどかえりみる余裕がありませんでした


しかし、


私の知っている範囲では県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ


残った老人、子供、女性のみが、あいつぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、


わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に


避難したり、砲爆撃の下でさまよい、


南風にさらされる貧しい生活に甘んじできました


しかも若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや


切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。


看護婦に至っては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発にしてしまい、


身よりのない重病者を助けて共にさいようさまよい歩いています。


このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。


さらに、軍において作戦の変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、


輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。



これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から


最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、


ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、


この戦闘の最後を迎えてしまいました。


沖縄の実情は言葉では形容のしようがありません。一本の木、


一本の草さえすべてが焼けてしまい、


食べ物も六月いっぱいを支えるだけと言うことです。


沖縄県民はこのように戦いました。



県民に対して後生特別のご配慮をしてくださいますように




この中にはひめゆりの事を指してるのあると思う





沖縄の戦争というのはこの文章にすべて集約してますね







自分は意見を言わなくてもいいですね


ですがあえて言うとなればこの言葉を言った後に自決をしたのです



総司令官は自殺をする前に何を思って書いたのでしょう


上の人に伝えて何をしてほしいと願ったのでしょうか



考えさせられますね




司令官の壕の中の映像も取りました






一つ目は壕から飛び出すところです


動画



次はえぐいです


二つ目は自決した後が残ってる壁の後


動画



重たい話ですいませんでした